2026.02.25
スポニチアネックス
佐々木晶三師 父との“キズナ”夢実現の支え 調教師として名を広めたタップダンスシチー
いよいよラストウイーク。別れの時が来た。今年は東西で7人の調教師が70歳の定年制により、来月3日をもって引退となる。ホースマン人生を振り返る連載「さらば伯楽」は、第80代ダービー馬キズナを育てた名トレーナー佐々木晶三師(70)にスポット。“地獄を見た”という騎手時代も含め、半世紀を戦い抜いた競馬人生を振り返る。
騎手として桜花賞を含むJRA通算136勝、調教師としてキズナで制したダービーを筆頭にG1級のビッグレースを8勝した佐々木師。半世紀を超えるホースマン人生のスタートは大好きな父の夢をかなえるためだった。
父・星蔵さんはかつて鳴尾競馬場(兵庫県西宮市)で行われていた繋駕(けいが)速歩競走(一人乗りの二輪馬車に乗って競走する競馬の一種)の厩務員。山口に移り農業に従事してからは5人の子供を育て上げ、かわいい末っ子を大好きな競馬の騎手にしたいと夢見た。
「何度も競馬場に連れて行ってもらった。小倉競馬場で騎手候補生の試験を受けたけど、受験者はたった一人。馬に乗ったこともないし、まさか受かるとは」
合格の報が届く。晴れて長期騎手候補生22期生の一人として上京。待ち構えていたのは試練だった。母が騎手になることに猛反対した理由は無理な減量を心配したから。規定の体重は43キロ。入学前に53キロあり、過度な減量を強いて潜り込んだ経緯があった。
「腹が減った思い出しかない。抜き打ち検査で54キロぐらいあった。“これでは絶対に卒業できない”と。そこから必死に7キロ近く減量して47・2キロまで落とし、ギリギリで卒業できた」
本当の地獄は騎手になってからだった。74年、キョウエイライジンで初騎乗&初勝利の華やかなデビューを飾るが、毎週つきまとう減量から逃れることはできない。79年の桜花賞をホースメンテスコで勝つが、年齢を重ねるごとに減量が難しくなる。この世界から逃れたいと考えていた。
「毎週水曜からが地獄。考えるのは落ちない体重のことだけ。減量しすぎると脱水症で腰砕けになる。検量室で体重計の上から動けないこともあった。“あと5キロ落とさなければ”と焦る夢を見て寝汗をびっしょり。調教師になってからも10年ぐらい、そんな夢ばかり見ていた」
82年秋、騎手を引退して調教助手に転身。3年目に心機一転、調教師を目指した。7回目の挑戦で合格。94年に厩舎を開業した当初はスロースタートだったが、持ち前のビジョンとバイタリティーで厩舎をまとめ、勝ち星を伸ばしていく。自身の大きな夢をかなえ、世間に名を知らしめたのがタップダンスシチーだ。
「騎手時代に見た第1回ジャパンC(81年)があまりにも衝撃的で。メアジードーツに、鞍上はアスムッセン。いつか調教師になるようなことがあれば、あんな華のあるレースに使いたいと」
03年、それが現実になる。タップダンスシチーはJC史上最大着差の9馬身差をつけて優勝。「うれしくて、あの日は哲ちゃん(佐藤哲三騎手)と朝まで銀座で飲み明かした。哲ちゃんもカツラギエースのジャパンC(84年)を見て騎手を目指したから」
調教師としての集大成は13年ダービーを制したキズナだ。「初めて見た時からオーラが違った。あんな馬は最初で最後。ダービーも負ける気がしなかった」。凱旋門賞(13年4着)にも挑戦し、国内外で重賞5勝。引退後は種牡馬として大成功。24、25年と2年連続でJRAのリーディングサイヤーに輝き、今や競馬界の根幹種牡馬として確固たる地位を築いている。
「いい競馬人生だった。思い残すことなんか、何一つないんだから。夢は全部かなえた。JRA全10場重賞制覇も新潟だけを残し、そこから10年かかったけど達成できた。健康な体に産んでくれた母と、競馬の世界に導いてくれた父に感謝だね」
競馬の世界に偉大な足跡を残した佐々木師。父の夢をかなえ、自らの夢を実現させ、何より大きな夢をファンに与えてくれた。
◇佐々木 晶三(ささき・しょうぞう)1956年(昭31)1月15日生まれ、山口県出身の70歳。74年3月に栗東・中村武志厩舎から騎手デビュー、79年桜花賞をホースメンテスコで制覇。82年に引退、JRA通算1180戦136勝。調教助手を経て、94年に調教師免許取得。96年デイリー杯3歳S(シーキングザパール)で重賞初V、03年ジャパンC(タップダンスシチー)でG1初制覇、13年キズナでダービー優勝。25年8月に新潟ジャンプS(インプレス)を制し、史上8人目の全10場重賞制覇を達成。JRA通算7566戦680勝(うち重賞53勝、24日現在)。