2025.07.24

レッドシューター

2006年のタタソールズ・オクトーバーイヤリングセールで、1頭の鹿毛の牡馬が33万ギニーで落札された。落としたのは山本英俊オーナーだった。アイルランド生まれで、父はRed Ransom、母はAspiration(その父はSadler’s Wells)という血統。従兄には、愛ダービー(GⅠ)を9馬身差で圧勝したソルジャーオブフォーチュンがいた。この血統背景から、日本で活躍すれば、やがてはヨーロッパ、すなわち凱旋門賞(GⅠ)への挑戦をも視野に入れたくなるような夢を抱かせる馬だった。
 この馬は「レッドシューター」と名付けられ、美浦の藤沢和雄厩舎(解散)に入厩することになった。伯楽のもとで英才教育を受けることになったのだ。
 「レッドシューターの調教には、ほとんど毎日のように乗せてもらっていました」
 そう語るのは、当時藤沢厩舎に所属していた土田祐也調教助手(現・木村哲也厩舎)だった。
 「第一印象からしてとても良い馬で、藤沢先生もかなりの期待を寄せていました」
 その期待を示すように、新馬戦の鞍上には日本一のジョッキーが指名された。08年2月、東京競馬場でのデビュー戦で、その背に跨がったのは武豊騎手だった。レッドシューターは、その名手に導かれるようにして、鮮やかなデビュー勝ちを飾った。
 さらに3戦目では、当時のトップジョッキーのひとりである安藤勝己騎手が騎乗。このアルメリア賞で再び先頭でゴールを駆け抜けた。ここまでの経緯を受け、藤沢調教師の口からは青葉賞を経由して日本ダービー(GⅠ)に挑ませるというプランが語られるほどになった。
 「能力は非常に高かったのですが、体質的に弱い面がありました」
 土田助手がそう振り返るように、レッドシューターには緩さが目立っていた。藤沢調教師は競馬の祭典への出走を見送り、まずは体質の強化を優先。馬を一度放牧に出す事にした。
 この放牧は、結果的に約1年2カ月もの長期に及んだ。だが、09年4月、4歳となって戻ってきたレッドシューターは、復帰戦で2着に2馬身半差をつけて楽勝し、その健在ぶりを示してみせた。
 その後も、大敗することはなく、着実に実力をつけ、階段を一段一段登っていった。10年11月には準オープンのノベンバーSを快勝し、ついにオープン馬の仲間入りを果たした。
 「体質は少しずつ改善されていきましたが、調教から一所懸命になって走ってしまうような性格でした」
 土田助手はそう語る。続くキャピタルSではハナ差、さらに続くディセンバーSでは半馬身差でいずれも2着に惜敗。このようにあと一歩で勝ちを逃すことが多かったのも、持ち前の真面目さ、すなわち一所懸命に走り過ぎてしまう性格ゆえの事だったのかもしれない。
 こうしてレッドシューターは、満を持して中山記念(GⅡ)に出走する。これだけの素質馬でありながら、伯楽が16戦目にして初めて重賞に送り出したという事実は、馬を大切に育てる藤沢流の矜持を感じさせる出来事だった。結果は5着に終わったが、これで16戦5勝という成績に加え、その全てのレースで掲示板に載るという安定感を見せていた。
 「藤沢厩舎という環境の中で、数多くの名馬に関わらせていただきましたが、そんな中でもレッドシューターはとても印象深い馬の1頭でした。気持ちが常に前向きで、ネガティブな面を感じたことが一度もありませんでした。長い休養明けでもしっかり走れる馬で、もし体質がもう少しだけしっかりしていれば、GⅠの舞台でも勝ち負けできていたと思います」
 中山記念の後、レッドシューターは北海道に放牧に出された。だが、その放牧中に急逝してしまった。あまりにも突然で、あまりにも早すぎる別れは、それから14年が過ぎた現在、思い起こしても残念でならない。
(撮影・文=平松さとし)